私の好きな本③『たんぽぽのお酒』レイ・ブラッドベリ

6月になると、つい手に取ってしまう本がある。レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』。
長いこと読んできたから、冒頭パラグラフはすっかり憶えてしまった。久しぶりに唇に乗せてみる。

静かな朝だ。町はまだ闇におおわれて、やすらかにベッドに眠っている。夏の気配が天気にみなぎり、風の感触もふさわしく、世界は、深く、ゆっくりと、暖かな呼吸をしていた。起きあがって、窓からからだをのりだしてごらんよ。いま、ほんとうに自由で、生きている時間がはじまるのだから。夏の最初の朝だ。

この数行で、この作品に収められた印象的ないくつかのシーンが、そして文章そのものが心を満たしていく。
そして、やっぱり今もこの本がとても好きだな……と痛感する。「痛感」と言う言葉を使うのは、それは少しの痛みを伴うから。

『邪宗門』とたんぽぽのお酒

『たんぽぽのお酒』を購入したのは13年前の6月だったらしい(巻末に書店の黄ばんだレシートが挟んである)。
どうして、それまで読んだことがなかったレイ・ブラッドベリの小説を買い求めたのか、うまく思い出せない。
長いこと、本作に対してあまり良いイメージを持てなかったことは憶えている。
お洒落そうな方々(と、ひと括りにするつもりはないけど…)が特集・私の好きな本」などで挙げることの多い、「SF大家がノスタルジイたっぷりに書いた、児童文学と青春小説の中間みたいな感じの、ゆるくてちょっと切ない自伝的小説」みたいなイメージが出来上がって、自分の内に長いこと居座っていた。ああ、偏見は読書家にとって最大の難敵であります。

だけど何かの拍子に書店で手に取ってみたら、荒井良二画伯の描く鮮やかな黄色い表紙に心を射貫かれたのかもしれない。あるいは冒頭数ページをぱらぱら読んで、「わりといいじゃん」などとレジに持っていったのかもしれない。

たしかなことのひとつは、その味わい深い翻訳(原書よりも美しいとさえ感じる)、小説というよりも詩にずっと近いその奇跡的な文体に一気に「持っていかれた」こと。
もうひとつは、東京・国立市にかつて存在した喫茶店『邪宗門』(こちらの喫茶店についてはいつか別枠でたっぷり書きたいと思います)で本書を読み終えたこと。

『邪宗門』のことを思い出すと、自分の内に憧憬と後悔を帯びた夏がぼんやり浮かび上がってくる。ぴんと咲き誇ったヒマワリとラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」、真夏の夜のにおい。
秋になっても、冬が来ても、来年になっても再来年になっても、10年後になっても、もう自分が地上に存在していなくても、「あの夏」はきっといつでも——1ミリも変わることなくここにある。たぶん。
「ここ」というのは自分の心で、その中には時間は流れておらず、でも止まってもおらず、もう近くにいないあの人や、親しき動物たち(僕の場合は猫である)と、その記憶と経験をここだけど「ここ」じゃない場所(なんなら、「別の宇宙」とか「並行世界」と呼んでもいい)で静かに、とっくりと分かち合っている。

「この前に2月に、ね」と、トムはいって、クスクス笑った。「マッチ箱を吹雪の降るなかにさしだしてさ、古い雪片をひとつ受けとめる、箱を閉める、家に駆けこむ、冷蔵庫にしまう、とこうなんだよ!」

僕の初夏は、あの喫茶店で過ごした時間であり、かの女と多摩川沿いを自転車で走った時間であり、この猫と暮らしていた部屋であり、きこしめしていたコーヒーの味であり——それらはマッチ箱の中の雪片のように今も保存されている。
うだるような暑さの中目覚め、熱い濃いコーヒーを飲み、クラシックのレコードを買い求め、窓を開けて同居猫と横たわっていた。そんな幸福な初夏の記憶——感覚に近い——が、『邪宗門』のウィンナ・コーヒーに乗っかった生ぬるいホイップクリームのようにぐるぐる渦巻いているのだった。カップに手を伸ばしても、もう飲むことはできないけれど。

たんぽぽのお酒(Dandelion Wine)とは、風のブラシをかけられて、高圧の電気を充電された雨を採取した雨と、地下室に運ばれたたんぽぽのエキスをボトルに詰めて醸造したもの。本書にはそう記されている。

夏を手に持って、夏をグラスに注ぐ——もちろんそれは小さなグラスで、子どもたちはほんのちょっぴりからだのほてるやつをひとくちするだけでいい。グラスを唇にもっていき、それを傾けて夏を飲みほして、血管のなかの季節を変えるのだ。

『たんぽぽのお酒』を初めて読んでから13年め。13歳歳を重ねて、今年もあの6月がやってきた。
窓を開けて、目を閉じると、あの夏はもうとっくに終わっているけれど、やっぱりそこにあるのだ。

いつだって今の夏がいちばん新しい夏だけど、目の前にある世界はきっとこの世界のほんの一部なのだから、心が雨漏りする時のために、夏の記憶の濃いのをいくらか小瓶に入れて取っておきたいと思う。心がすっかり乾いてしまった時、ひとくち呑んで潤せるように。

『たんぽぽのお酒』、読みたくなったらぜひ夏が終わる前に。

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