チャンドラー最後の作品
ここまでサリンジャー、ヘミングウェイ、クイーン(さらにはスヌーピー)と挙げてきたので、バランス的にこの時代の米国作家はもう入れまい……と考えていたのですが、やはりこの人を外すわけにはいきませんでした。
ハードボイルド・探偵ものの代名詞、フィリップ・マーロウ・シリーズを遺したレイモンド・チャンドラー。早川書房から、村上春樹による新訳が全巻配本されたのも記憶に新しいところです。
「ハードボイルド」「ミステリ」といったサブジャンルに絶大な影響を与えているだけでなく、訳者の村上春樹を始め、多くの純文学畑の作家たちもそれぞれにその功績を讃えています。
「人間の孤独・徳義を見事に描き、メランコリックなジャズ・バラードにも似た美しさを備えている」(カズオ・イシグロ)
「チャンドラーの作品は自意識を抜きにした雄弁の域に達している」(ジョイス・キャロル・オーツ)
そんなチャンドラー作品でマイ・ベストを選ぶとしたら——
おそらく70%以上のファンは『ロング・グッドバイ(長いお別れ)』を選ぶのではないでしょうか。
実のところ、さっきまで、僕もそのつもりでいました。長篇小説として圧倒的に面白く、抜きんでていることは認めざるを得ませんし、18歳の頃に最初に読んだチャンドラー作品なので思い入れもかなりあります。
また、僕が長年働いていたカフェバー『flowers』の常連だった学生さんが、特注したオリジナル帯を巻いた限定版(上画像)を関係者に配った、という懐かしい思い出もあり。
ただ、ここはあくまで「個人的に好きな本を選ぶ」というコンセプトなので、本作『プレイバック 』(清水俊二訳)を選ぶことにします。初めてチャンドラーを読まれる方には、『長いお別れ(ロング・グッドバイ)』『大いなる眠り』『さよなら、愛しき女よ』あたりを強力にお薦めしたいところですが……。
傷心と鬱の最中で
19歳の時、『さらば、愛しき女よ』『長いお別れ』の後に続けて本作『プレイバック』を読み終えた時、激しい衝撃を受けました。
端的に言うと、「……何じゃこりゃ」。
この作品、チャンドラーの入念かつ丹念な書き込みを知っている者からすると、「別の人に書かせたんじゃないか?」と思ってしまうほど「ぺらぺら」なんです。実際、本も薄いし、登場人物の台詞もやたら短い。
何より、これまで最高にクールな台詞と所作で我々を魅了してきた根っからのハードボイルドヒーロー、フィリップ・マーロウ氏が明らかに腑抜けているというか……ぜんぜん肝が据わっていない。不意打ちで背後から殴られて泣きそうになるし、知り合った女性をいちいち(気怠そうに)口説きまくるし、所構わず酒を飲むし。
本作がリリースされた時、批評家もファンたちもかなりロウバイしたようです。おいおい、5年も待たせておいて、これか? チャンドラーは大丈夫か?と。
実際のところ、あまり大丈夫じゃなかったようです。
『プレイバック』執筆前、チャンドラーは最愛の妻を看取ったばかり(それまで彼は付ききりで病床の妻を介護していました)。妻の死後は鬱に襲われ、日々多量の酒をきこしめしていました。しかし長い付き合いの担当者に鼓舞され、どうにか自分を奮い立たせ、朝6時からコーヒーとスコッチウイスキーだけで、毎日十時間書いていたと述懐しています。
たしかに、読めば読むほど、力を振り絞って「よれよれ」になりながら書いている作者が浮かんでくるような筆致、内容なのです。
でもだからと言って、「そっか、じゃあ仕方ないよね…」といった同情込みの気持ちで本作を贔屓しているわけではありません。
歳を重ねると、ひどく疲れている時、あまりによく書かれた「隙のない」小説って、なかなか読む気になれないことがありませんか?
それよりも、きつい疲れに寄り添ってくれるような、脇の甘い作品が心を癒してくれることがある。自分は、徹夜の仕事明けに少量の生ぬるいスコッチを欲するように、自然とこの小説に手が伸びるようになったのでした。
その後、年にいっぺんくらい読み返しているうちに、本作がだんだん自分にとって愛らしい作品へと――本当にゆっくりと――変化していきました。
振り絞ってどうにか紡ぎ出された文体は、捉え方によっては詩的でさえある。酸いも甘いも超えた老境の域にたっしているのだけど、説教くさいところはまるでない、弱った、シリアスな老人の妙味が文章から滲み出ています。
我々にはどうして自分が生きているのか、何をあくせく動き回っているのか、まるでわからなくなってしまうような時があります。この小説が、そんな途方に暮れて疲れた男がどうにか探偵稼業をこなす様子を実直に、リアルに描いていることが自分も年齢を重ねて、ようやくわかってきたというか。
そんな風に、或る小説・作家に対して、長い時間をかけて見守るような意識と作品への理解が自分に生じたのは初めてのことだったように思います。きっとこの老成した小説を身をもって理解するには、19歳の自分はあまりに若かったのでしょう。
新旧名台詞比較
さて、この小説にはチャンドラー作品の中で、もっともよく知られたであろうマーロウの名台詞が登場します(新訳版あとがきによると、この台詞がこれほど有名なのは日本だけかもしれないということですが…)。
「If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.」
せっかくなので、新旧訳を引用してみます。ついでに『本当の翻訳の話をしよう』(新潮社)に収められた柴田元幸氏訳も。
「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」(清水訳)
「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」(村上訳)
「無情でなければ、いまごろ生きちゃいない。優しくなれなければ、生きている資格がない」(柴田訳)
こうして並べてみると、けっこう違いますね。
ちなみに僕も20年くらい前に本作の原文が気になって、ペーパーバックを大宮のジュンク堂で見つけて(当時はKindleもなかったので)購入し、ところどころ訳していました。恥ずかしながら拙訳を引用してみます。
「厳しくなければ生きてこられなかった。優しくなれなかったら、生きるに値しなかった」
うーん、ぱっと見は村上御大のに近い……のかな。でも、やはり貫録に欠けるというか。皆さんはどの対訳がぴんときますか?
ただ、やはり文章には「コンテクスト(文脈)」というものがあるので、この部分だけ抜き取ってもあまり意味がない気もします。本作にご興味が出てきた方は、ぜひ本書を頭からお読みください。
幸福な結末?
もうひとつ、僕の心にしつこく残り続けてきたのは、この小説の一見とってつけたような結末。
事件をどうにか片づけた主人公・マーロウが疲れて自宅に戻ると、かつての恋人(前作『長いお別れ』で出会ったリンダ・ローリング)から国際電話がかかってきます。
マーロウは、彼女となんやかや話した後、近いうち、パリに住む彼女の元に飛行機で行くよと言います。
そうして幸福な気持ちになって、依頼主から事件報告を催促する電話がかかってきても、「あひるに接吻しに行っていらっしゃい」(意味不明…w)と言って電話を切ります。
1秒とたたないうちに、電話がまた鳴り始めた。
私の耳にはほとんど聞こえなかった。部屋のなかに音楽がみちみちていた。
上記が本作最後のセンテンス。
長くチャンドラー作品を読んできた読者からすると、何とも呆気に取られるようなエンディングです。
でも、この時、チャンドラーが妻を亡くして翌年に自殺未遂事件を起こすほど傷心だったこと、朝からウィスキーを飲まなければ本作を書けないほど弱った精神状態だったことなどを鑑みると、この結末には、チャンドラーのリアルな心情がばっちり反映されていたのかも――と思わないわけにはいかない。
今となっては、この結末部分をたびたび読み返すくらい好きになってしまいました。
あるいは、これは「夢オチ」なのかもしれない。本当は恋人から電話などかかってこなかったのかもしれない。マーロウ氏は幻聴が聴こえるほど疲れていたのかもしれない。
ともあれ、マーロウさん、チャンドラーさん、30年間、おつかれさまでした。どうかゆっくり休んでください——そんな素直な気持ちに襲われます。
そして、本を閉じて、思う。
人生という長編小説が、愛しい恋人から久方ぶりの長距離電話がかかってきて、部屋に音楽がみちみちたまま終わるなら、それはきっとさだめし素晴らしい結末だろうな、と。
本作を書き終えた後、1959年、病床のチャンドラー氏は息を引き取りました。チャンドラーさんもマーロウさんも、きっと向こうで最愛の人に会えたと思いたいですね。