ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ30番」。
所謂「後期3大ソナタ」と呼ばれる作品のひとつです。「前期ソナタ3大ソナタ」に比べると、「熱情」「月光」のようなキャッチーな表題がないこともあり、やや地味な印象もあるかもしれませんが、私のように思い入れ強い方もきっと多々いらっしゃることと思います。
臆面もなく言いますが、ベートーヴェンのピアノソナタが大好きなんです。とくにこの30番。拙コンピにもできれば全楽章収録したかった。まあ、第1楽章だけでも充分に素晴らしさは伝わると信じていますが……。
https://music.apple.com/jp/playlist/tsuki-kusa-record-compiled-by-itsuki-h/pl.u-dJBYtZJlYj
今日は幾分とっちらかった内容になると思うので、何となく口語な感じで、リラックスして書いていきたいと思います(それだけ緊張しているということかもしれません。何せ、お題がベートーヴェン御大なので……)。
マウリツィオ・ポリーニのピアノ・ソナタ30番
前回に続き、のっけから選んだピアニストとは別のピアニストの話から始めさせてもらいます。
今朝のことです。
「そうだ、最近ポリーニ御大が去年リリースしたばかりのベートーヴェン全集をまだ聴いてなかったな……」と思い出し、musicをチェックしてみると、なんと、昨年開催された最新コンサートがアップされているではないですか。しかも、1曲めはベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第30番」。
これはもう先に観るっきゃない……軽く興奮しながら一気に視聴しました(music加入されている方はぜひっ)。マウリッツィオ・ポリーニの”Piano Sonata No. 30 in E Major, Op. 109: 1. Vivace, ma non troppo – Adagio espressivo”ミュージックビデオ – 2020年 – 4:14music.apple.com
こちら拝見しまして……少し泣きました。あまりに素晴らしくて。
演奏はもちろんのこと、すっかり老齢になられたポリーニ氏の佇まいと表情が、もう、ね……。
なんでしょう、老いることの素晴らしさを得心しました。や、その言い方は正確じゃないな、正確には「在り続けることの素晴らしさ」というべきか。や、これも違う気がする……。とにかく見ればきっと伝わると思います。
1960年の伝説のショパン・コンクールで、かのアルトゥール・ルービンシュタイン氏に「ここに彼よりうまく弾ける人がいるなら名乗り出てくれ」と言わしめ、吾国の誇るクラシック音楽評論家・吉田秀和氏に「これ以上、何を望むのですか」と書かせた驚異のショパン「練習曲」で一世を風靡したポリーニ氏。そうして80才を目前にしてのこの打鍵。この姿勢。そして表情。これは「現世」という景色を、車窓から眺めやる、永遠に生きる魂の眼差しですわ。
ただ、この演奏会を視聴して、ちょっと頭を抱えたところもあって。
というのは、僕はグレン・グールド氏の影響というわけでもないのですが、「演奏会」に対しては昔からきわめて懐疑的で。とくにクラシック音楽に対しては「実演奏なんか聴かなくていい、録音物さえあれば」と長らく思ってきたのです。演奏者の表情とか、若いだの老いただの美麗だの背中が曲がってるだの、そんなことは真実どうだっていい! 耳に聴こえる音が全てだろ、と(実際、クラシック演奏会に行っても殆ど目を閉じて聴いています)。
でも、このようなポリーニ氏の佇まいを見ると、やはり生者が生演奏を披露することに(ビジネスな的意義とは無関係に)大きな意味・意義はあるのかもしれない、そう思わないわけにはいきません。聴衆を前にすることで、聴衆と磁場をともにすることによって、とくべつな演奏と時間が生まれることも実際に起こるのだから……自分はいちリスナーとして、これからも生演奏よりも録音物に重きを置くことは間違いないけれど、それは認めなきゃならない。
ウィルヘルム・バックハウスのピアノ・ソナタ30番
何の話をしてたんだっけ……。
そう、聴衆を前に、毅然と演奏した老ポリーニ氏の姿は録音物以上に感じさせるsomethingがある、ということでした。
「歳を経てようやく辿り着いた境地」みたいな物言いも全く好まないのですが、こういう映像を観ると、やはり本人にとって、周囲にとって、芸術にとって、幸福な「老い」というのは存在するのだなあ、ともしみじみ感じ入る次第。
で、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第30番」。繰り返しになってるかもしれませんが、僕は本当に、とてもこの曲が好きなのです。どのくらい好きかというと、たぶん、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中で1番好き。や、わかりませんね。プレイリストに入れたから勢いで言ってるだけかも。ただ、ベートーヴェンのソナタの中でもっとも多く聴いた曲であることは確かで。しかし「好き」っていうのはあれですね……少なくともこの場においては何を言ったことにもなりやしない。でも、好き。
僕がこのソナタを初めて知ったのは、遥か昔(若かりし頃)、ウィルヘルム・バックハウスのベートーヴェン全集を順繰りに聴いていた時でした。
ウィルヘルム・バックハウスのベートーヴェンのピアノソナタを聴かれたことはありますか? バックハウスがデッカに遺したこのベートーヴェン全集は、僕にとって宝石が32こ詰まったキラキラ宝石箱のようなものです。
結局のところ、僕にとってベートーヴェンのピアノ・ソナタはこのバックハウスの演奏に尽きるように思います。「尽きる」というのは、何も意識せずにこの曲を思い浮かべる時、勝手に流れて出してくる演奏、あるいはこの世を去る時に思い出すであろう(あるいは思い出したい)演奏、みたいな意味あいで。
改めて、さっきバックハウスの遺した30番を通して聴いてそれを痛感したのです。ここには、自分にとっての青春——できればこの言葉は使いたくないけれど——のような、かけがえのない、いつまでも瑞々しい記憶と感情がばっちり刻印されていると。
しかし、もはやベートーヴェンその人同様、何処かの石碑にその名を深く刻まれているであろう、古典中の古典・バックハウス氏の演奏が、どの演奏と比べても「今、そこで鳴っているように」切々と響くのはいったいどういうわけだろう?」 しばし自問しました。
けどまあ(便利な接続詞)、「クラシック」というのはそういうものなのでしょう。50年前の演奏が自分にとってもっとも近しいものになったり、昨年のポリーニ御大のライブ演奏が、どんな演奏よりも「普遍」を響かせることがある。芸術は人間と時間を超越しているようです(言うまでもないことかもしれません)。
さて、ここでようやく本題というか、このプレイリストに入れたフリードリヒ・グルダの話に入ります(やっと!)。
当名曲喫茶『月草』には、「名曲喫茶」の例に漏れず「リクエスト」という古き良き制度(と言うべきか)がありまして。
お客さまは、当店に陳列されている1000枚以上のレコードの中から、好きな1枚を(1人1枚まで)選んで再生する権利を有しています。で、当店も営業日はほぼ必ず誰かから、何らかのリクエストが入ります。
そして「やっぱり」と言うべきか、ベートーヴェンのリクエストは多かった。もし「リクエスト作曲家ランキング」みたいのを作ったら、確実に上位5曲中2曲を占めると思います(あとはラフマニノフとモーツァルトと……誰だろ?)。
そのリクエストがベートーヴェンピアノソナタの場合(たいてい「熱情」か「月光」でしたが、まれに30番を選ぶ方もいました)。
当店にはバックハウスのベートーヴェン全集とグルダの全集が並べてあって(ソナタ単体では様々なピアニストのがあるのですが、全集はこの2人しか持ち合わせていなかったのです)、「どちらが宜しいですか?」訊くと、たいていバックハウスでした。年配の方はとくに。「グルダもなかなかいいんですけどね……」そう思いつつ、せっかく頂いたリクエストなので、そういう差し出がましいことは言いませんでした。それにバックハウスの素晴らしさは僕自身が重々承知していますから。
でも、最後のお客さんが帰った後に店のシャッターを下ろし、グルダのベートーヴェン30番のレコードに針を落としてみると(疲れている時にかぎって無性に聴きたくなるのです)、言葉にならない感動がふつふつ押し寄せてくる。
バックハウスのような煌めきと力強さはないのだけど……深い気品と、さらさらと流れる小川のような清々しさ、そして作曲者ベートーヴェンは気に入らないかもしれないけれど、作曲者が持っていた(かもしれない)「透明な楽天性」を感じる。大切な人の、かけがえのない笑顔のような。その録音は僕の心身をずいぶん癒してくれたのです。
余談ですが、フリードリヒ・グルダは作曲家(あるいは人間として)モーツァルトを深く敬愛しており、「自分はモーツァルトと同じ日(1月27日)に死ぬからよろしく」と生前、周囲に公言していました。
そして、実際に2000年同日、心不全でこの世を去りました。周囲の方はさだめしびっくりしたことでしょう。でも、この「願ったり叶ったりの死」にはグルダという人がよく現れているような気がします。なんとなく。
最後に、グルダとはまったく真逆の録音(と筆者は考える)を遺したグレン・グールド氏の「ピアノソナタ30番」。
この演奏についても書きたいことは山ほどあるのだけど、いささか長くなってしまったので今日はこのへんで。もしお時間あれば聴いてみてください。とくに2楽章が凄いです。
次回はこのグールドの遺したモーツァルト「ピアノ・ソナタ第12番 ヘ長調」について書きます。ぜひ、引き続き(懲りずに)お付き合いくださいませ。