フォーレ「ピアノ三重奏曲 ニ短調」

7曲めはガブリエル・フォーレが晩年に書き上げた傑作「ピアノ三重奏曲 ニ短調」
今回も引き続き、筆者のごく個人的な話から。
「いや、そういうのはもう良いから、楽曲の歴史的背景とか演奏家についてちゃんと書いてよ」そう思われる方も当然いらっしゃることと想像します(謝)。

まずは僕が名曲喫茶を始めた経緯について少しばかり書かせてください。

『名曲 ジュピター』のこと

僕は東京都多摩地区の国立(くにたち)という街で生まれ、幼少期の殆どを過ごしました。当時暮らしていた家から歩いて5分ばかりの場所に『名曲ジュピター』という名曲喫茶があったのです(画像はリンク先サイトより拝借しました。ネット上には『ジュピター』の写真がほとんどないのできわめて貴重です)。創業はおそらく1960年代初頭と思いますが、正確ではありません。
店名はご存知モーツァルト交響曲第41番から……しかしこちらも言い切ることはできません。この店で41番が流れていた記憶は殆どないのです。不思議なことに。

ガラスが貼られた入り口の扉には裏側からベルベットのカーテンがかけられていて、ノブをそっと回し押すと、溶けかけた蝋とレコード盤とシルクの香りが混じり合ったような、独特の香りが「ぷん」としました。それは「ああ、今日もジュピターに来たんだ……」瞬時に了解させてくれる唯一無二の香りでした。

店内はそれほど広くはないですが、2階建てで、1階席も隠れ部屋のような趣きがあり、ごく落ち着けるのですが、踏むとぎしぎしする階段を注意深く上ると、小窓から通りを見下ろせる(写真参照)窓際席があります。
僕と母はこの窓際席によく座っていました。

画像1


幼少期から『ジュピター』に行けたことは、僕に多大な影響を及ぼしています。や、今となっては「影響を及ぼす」どころか、自分の半生を決定づけてしまったようにさえ感じているのですが……というのは、もし此処が存在していなかったら、僕はきっと後年「名曲喫茶を開こう」などという大それた考えはけっして抱かなかったはずなので。

『ジュピター』のマダムは瀟洒で物腰柔らかい方でした。
しかしながら、そんな言葉では彼女の人となりを微塵も言い表せていないように思います。20年以上彼女と顔を合わせてきた僕としては、もう少し突っ込んだ印象を述べたいと思います。
上品で朗らかな表情の奥に、ある種の喪失感と「もう少し此処でこうしている必要がある」といった穏やかな決意のようなものが(僕には)見受けられました。「心ここにあらず」とは少し違うけれど、何か現実にうまく属しきれていないような、時おり見せる儚げな表情が印象的な方だった。
そんな滲んだ水彩画のようなマダムの存在感は『ジュピター』という名曲喫茶にあまりにもよく馴染んでいました。

『ジュピター』在りし頃、僕はまだマダムとクラシックについて語らえるほどの知識も人懐こさもまるで備えていませんでした(今も自信ありませんが、まあ、当時よりは……)。
マダムから「何かリクエストはないの?」と訊かれても、モーツァルト交響曲第40番かベートーヴェンピアノソナタくらいしか思いつかず……日々クラシック通の常連客が知らない曲ばかりリクエストしている傍らで、そんな有名曲をリクエストするのはなんだか気恥ずかしかった(だからリクエストはほとんどしなかった)。

十代の頃から『ジュピター』でデートしていたという(笑)母にたびたび連れていってもらっていた幼少期。
駅前の書店で買ってもらった漫画単行本に読み耽りながらホットカルピスのグラスを両手で持って飲み、中学生の頃は海外推理小説を広げて覚えたてのアイスコーヒーにガムシロップをたっぷり入れて飲み、1人でも行くようになった十代の終わりからは、米文学や洋楽誌を(おそらく生意気そうに)読んでいました。傍らには幼少期同様、ホットカルピスがありました。が、それには毎回30mlのウィスキーが(笑)
「今日もお酒の練習?」マダムによくからかわれたものです。
今でもホット・ウィスキー・カルピスを飲むと、ジュピターの空気をまざまざと思い出すことができます(僕が自分の名曲喫茶でお酒を数種出しているのは『ジュピター』の影響に他なりません)。

浪人生になって、予備校帰りの帰り道。『ディスク・ユニオン』の袋を抱えてジュピターに寄ると、「何のレコードなの?」マダムはわざわざ訊いてくれました。
僕がばつの悪そうな表情でドアーズやストーンズやジョー・パスの中古レコードをマダムに見せると、「音楽はやっぱりレコードで聴くのに限るわね」そう言ってニコニコしていたっけ。他にお客さんがいない時、注文した飲みものを持ってきてくれたマダムが短い時間、立ち話してくれる時間が好きでした。うら若き僕は気の利いたことは何も言えなかったけど、それでも。


マダムが亡くなったのを知ったのは、僕が28歳の時でした。
マダムは『名曲 ジュピター』を突然閉店した数ヶ月後、急逝されたのです。

あまりにもショックだった。言うまでもないことですが。

でも、何処かで「あの方らしいな」という気持ちもあって。
ご存命中、どれだけたくさんの音楽を、どれだけたくさんの憩いを、あの人は、1人でどれだけたくさんのお客さんに与えてくれたことだろう。そう思うと、今でも感謝の気持ちがじわじわこみあげてきます。
店舗と店主の存在をすっかり重ねるのは必ずしも正しい認識ではない、昔から何処かでそう思っているのですが、『名曲ジュピター』を思い出すことはマダムを思い出すことと、とても近い。そんな喫茶店は他には見つからない気がします。

それから1年後、30歳を迎える直前、何かきっかけがあったのかはうまく思い出せませんが、ロックばかり聴いていた僕は急に(しかし自然に)クラシック音楽ばかりを聴くようになりました。
新宿で買った中古レコードの袋を抱えて、「今、ジュピターがあればな……」再び深い喪失感に襲われるようになったのです(マダムなら、このフォーレのピアノ三重奏曲について何と仰っただろう?)
数多のクラシック音楽を聴けば聴くほど、『名曲ジュピター』とマダムの記憶は薄らぐばかりか、自分の内でいっそう鮮やかになっていくような気がしました。デジタル・リマスターされた古い映画みたいに。

『ルネッサンス』のこと
20代の終わりになると、休日には自室だけでなく、大きなスピーカーでクラシックを存分に聴きたいと思うようになりました。これまで名曲喫茶は『ジュピター』しか知らなかったけど、ちょっと足を伸ばしてみるか……ふいにそんな気になったのです。

ご存知かもしれませんが、東京・高円寺には『ルネッサンス』という名だたる名曲喫茶があります。
中野の老舗名曲喫茶『クラシック』を当時の店員さん2人が引き継がれたお店だそうで、僕は残念ながら『クラシック』には伺えませんでしたが、『ルネッサンス』に一歩足を踏み入れると、内装や雰囲気、佇まい、音楽の鳴りも僕の理想とする「名曲喫茶」を何処よりも体現していました。
『ルネッサンス』に通っていたのはかれこれ10年以上前になりますが、時間がぴったりと止まっているようなセピア色の雰囲気と、正面スピーカーから鳴らされる、ヴィンテージ蓄音機でしか出せない、味わい深い音像は今も自分の内に色濃く残っています。

『ルネッサンス』ではフォーレ「ピアノ三重奏曲」をもっともよくリクエストさせて頂きました(白いチョークで黒板にかりかりと書きつけるのです)。演奏者は……たしかジャン・ユボーが霊妙なピアノで聴かせる、雅な三重奏だったと記憶しています。定かではないですが。

そうしてある日、秋の薄暮の中を『ルネッサンス』に赴き、後ろのソファで「ピアノ三重奏曲」の第2楽章に耳を傾けていると、ふいに『名曲 ジュピター』のマダムを視ました。
夢ではなかったのかもしれません。何か自分の内に溜まっていた千々とした想い(のようなもの)が、それに相応しい場所と相応しい音を得て、ついに顕在化したようにも感じます。マダムはベルベットの服を着て、煙草を片手に、こちらに向かって微笑んでいました。あの頃と同じように。

目を覚ますと、「天啓」と言うと大袈裟かもしれませんが、ふいにひらめいたのです。ここ(ルネッサンス)のように、自分が『名曲 ジュピター』を(勝手に)継いで、名曲喫茶を始めるのは、どうだろう?
それは「夢のあと」の、夢のような思いつきでした。もちろん「こと」はそれほど簡単ではなく、実際に開店するまで母の惜しみない協力と2年の時間を必要としましたが……。

【喫茶クニタチ】第四回/名曲喫茶 月草 tsuki-kusa国立駅南口、富士見通り沿いにあるレンガ作りの建物。その外階段を上がった二階に「名曲喫茶 月草」はある。店内は商店街の喧噪かkunitachihonten.info

余談ですが、以前、本を媒介としたコミュニティ(と言うべきか)『国立本店』さんに当店の成り立ちをインタビューして頂いたことがあります。
僕が名曲喫茶を始めた経緯はこちらに詳しいので、よかったらご一読ください。月草を始めてからいくつかの媒体から取材して頂きましたが、こちらの記事がもっとも僕の意向を尊重して記事を作って頂いたように思います。そして上記記事に登場する「高円寺の名曲喫茶」というのは『ルネッサンス』のことです。

僕が足を伸ばしたことのある名曲喫茶は何処もかしこも素晴らしかったけど、もし「この世の終わりに、現存する名曲喫茶にひとつだけ行けるとしたら何処に赴くか?」と問われたら、迷わずここ『ルネッサンス』を選びます(こちらは現在も営業しておりますので、ご興味のある方はぜひ。僕もコロナ渦が落ち着いたら久方ぶりに挨拶に行きたい……)。
それはこのお店で「ジュピターのマダムと再会できたから」「名曲喫茶を始めることを決意できたから」といった個人的な理由も当然ありますが、『ルネッサンス』という唯一無二の名曲喫茶が唯々素晴らしいからに他なりません。

フォーレ「ピアノ三重奏曲 ニ短調」
最後に、ガブリエル・フォーレ「ピアノ三重奏 ニ短調」について。
この「ピアノ三重奏」は僕が『名曲ジュピター』に抱いていたイメージであり、僕が名曲喫茶を開くための「鍵」となった曲でもあります。そして、それは否応なしに、『ジュピター』のマダムのイメージにぴたりと重なっています(ご本人がどう思われるかはわかりませんが……)。

フォーレがこの曲を完成させたのは70代の終わり。老齢の身体は衰弱しており、視力も著しく弱り、耳もほとんど聴こえず、歯も痛み、生来の鬱気質も重なって(踏んだり蹴ったりですね……)創作意欲はフォーレ本人の言によると「すっかり枯れ果てていた」とのこと。
ガブリエル・フォーレという作曲家は、様々なエピソードから察するに、ベートーヴェンのようにエモーションとエナジィ溢れるタイプではなく、モーツァルトのような奇人変人天才タイプでもなく、シューマンのような気性激しいロマンチストともずいぶんと異なる。
今で言うところの「自己肯定感」に著しく欠け、外界の評価とコミットメントを自らの滋養として必要とする、所謂「大家」としては珍しいタイプの作曲家であるように思われます。
たとえば、フォーレの長男であるフィリップ・フォーレ・フレミエ氏は父親について以下のように述懐しています。

「相手をどれだけ思いやり、尊敬していようとも、父には、周りの調子に合わせて普通の会話をするのは不可能であった。食卓で、周りの人たちの関心が直接自分に注がれなくなると、たちまち父は不安そうな様子を見せた。そして目を凝らして、人々の顔の表情からその心を読み取ろうと努めた。父はこうした努力に疲れ果てたが、かといって、自分の存在を人に押し付けるようなことは好まなかった。何も言わずに、人々の関心が自分のところに戻ってくるのを待っていたのである。」(出典・Wikipedia)

フォーレが『ピアノ三重奏』に手をつける直前、妻に手紙で漏らしていた弱音もじつに愛おしく感じます。

「私は毎日、わらじ虫のように家の中に閉じこもって過ごしている。まったく何もしていない。ニースに来てから、書くに値するような音符は2つと見つけていないのだ。私の才能は枯れ果ててしまったのだろうか」

わらじ虫って(笑)
しかし数ヶ月後、フランスのアヌシー=ル=ヴューで「フォーレ・フェスティバル」が開かれると、フォーレは創作力を急激に快復し、まず『ピアノ三重奏曲』2楽章を書き上げ、その後、パリに戻ると第1楽章と3楽章も一気に書き上げたということです(何だか可愛らしいというか)。

そしてエコールノルマル音楽院で、カザルス三重奏団(ジャック・ティボー、パブロ・カザルス、アルフレッド・コルトー……凄まじい編成ですね)によって、とうとう完成された『ピアノ三重奏曲 ニ短調』が演奏されました。リハーサルに立ち合ったフォーレは、おそらく「万感の思い」で聴いていたのではないかと想像します(音源化されていたらぜひ聴いてみたかった……)。

最晩年に『ピアノ三重奏』『弦楽四重奏』の2曲を書き上げたことは、ガブリエル・フォーレという希代の作曲家の評価をさらに押し上げたはずです。
しかしそうした世俗的な評価とは無関係に、心身がもっとも弱っていた時期に書かれた此の『ピアノ三重奏』に、個人的には「救われた」と言っても過言ではありません。そして、そのような楽曲は数多のクラシック音楽を聴いた今でも、ほとんど見つけることができないのです。

最後に、フォーレ『ピアノ三重奏曲 ニ短調』と『ジュピター』、『ルネッサンス』にこの場をかりて心からの感謝を捧げたく思います。

次回は8曲め、ブラームス「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ短調」について書きます。これまた強い思い入れのお陰で記すのが難しそうですが、引き続きお付き合い頂けると大きな励みになります。

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