ラヴェル「ピアノ協奏曲 ト長調 アダージョ・アッサイ」

今日からB面(室内楽篇)に入ります。6曲めはモーリス・ラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調」より第2楽章(アダージョ・アッサイ)。

おそらくご存知の方も多い曲と思われます。
ちなみに「アダージョ・アッサイ」でGoogle検索すると、まっさきに「のだめ最終回」と表示されるのですが……僕はまっさきにそれが出てくる理由を一応知ってはいるのですが、正直、それはどうでもいいことです。

この曲にはかくべつ強い思い入れがあります。
むろん、このプレイリストは殆どが著者である僕の強い思い入れによって成り立っているのですが、それでも、この曲に対する思い入れは他の楽曲とは少しばかり違った場所に位置しておりまして。

このライナーノーツはこれまでのところ、所謂「自分語り」からなるべく遠ざけたいという気持ちを以てしたためているのですが(それでも自分語りになってしまっているやもしれませんが……)、この曲ばかりは「いかんともしがたい」。
そういうわけで、宜しければ此の「ライナーノーツらしからぬ」ライナーノーツにしばらくお付き合いください。

我が若葉の頃

私がこの曲を知ったのはかれこれ十数年前。まだ名曲喫茶を開店していない(どころか、自分がやることなど考えてもいなかった)頃だ。当時、私は30歳を迎えたばかり。今にして思えば、ずいぶん遅れてきた「若葉の頃」と回想するのに相応しい時季を迎えていたように思う。

幼少期より大好きな、古き良き(あまりにも良き)喫茶店がまだ存在していて(数年後、店主の急逝により閉店してしまうことも露知らず)、母と、友人と、1人きりで足繁く通い、毎日のようにここでしか飲めないコーヒーを頂き、時に紫煙をくゆらせ、その店を通じて知り合った大切な(という言葉で纏めてしまうのも憚られるような)人たちが何人かいた。

「クラシック」なるものが急速に自分の内に戻ってきたのもこの頃だった。私は余暇を見つけて大量のレコードを買い求め(後にそれを自分が開いた名曲喫茶のターンテーブルに載せるとは露知らず)、電車に乗ってあちらこちらの名曲喫茶に通った。

そう、私の内に急速に「音楽」が戻ってきつつあったのだ。それは私にとって、「人生」を取り戻すこととほぼ同義だった。
音楽はもちろん、外気や街の喧騒、木々の佇まいや川の流れ、草花の香り——それらがいちいち「ぎくっ」とするほど新鮮に、己の心と身体の組成を絶え間なく、刻々と組み換えているように感じた。私は木や虫や川と同じく、自分がこの世に生を受けたまったき「自然物」なのだ……そう実感しないわけにはいかなかった。

季節は初夏であった。

ある日、ひょんなことから手に入れた(クラシックとは無関係のアーティストがリリースしたブートレグ)2枚組みのコンピCDに、このラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調 第2楽章」が、流行りのエレクトロニカや古き良きロックに混じってぽつんと収められていたのだった。
当時はラヴェルとブラームスを毛嫌いしていた私だが、この曲だけは、聴けば聴くほど心と身体によく沁み入り、それこそ「寝ても覚めても」聴いていたように記憶している。
今も当時もどちらかと言えば不眠症ぎみだが、この曲を小音量で流していると「すとん」と眠れることが多かった(だからか、自分の内でこの曲は現実と夢を架橋するようなmoodを今でも色濃く纏っている)。

そして当時の私には、私とごく親しくしてくれていた人がいた。それは「似た魂の邂逅」だった。今もそう感じている。
店仕事が終わってから、深夜にその人(Rさんとしておく)と待ち合わせ、隣町のデニーズやジョナサンに自転車を走らせ、文学やクラシック、人生の長話を真夜中まで長々と交わした。

Rさんと並んで自転車を走らせている時に飛びこんできた外灯が放つ輝き、払っても払っても手足に寄ってくるやぶ蚊の五月蝿い音、鼻の奥をつんと刺激する草いきれ……それらはもうとっくに存在していないけれど、昨日のようにリアルに思い出せる。
Rさんとは「今は忘れてしまった、たくさんの話」をした(憶えている話も同じくらいたくさんあるが)。
「きっとこの人とずっとこうやって交感していくのだろう」ぼんやりと、しかし確固とした気持ちを持っていたように思う。

Rさんとは数多のCDを貸し借りした。Rさんは幼少期からピアノに親しんでいたし、クラシック音楽に関して私よりずっと耳が肥えていた(謙虚なRさんは否定するだろうが)。
我々はラフマニノフについて、バッハについて、フォーレについて、ああでもない、こうでもないと真剣に語り合い、書面を交換したりしたものだった。

この「アダージョ・アッサイ」を入れたCDRをRさんに(間接的に)渡した日のことをよく憶えている。深夜の店仕事を終えた後、私はRさんの家の軒先にある古い木のベンチに自転車で赴き、生ぬるい夏の夜の空気をひしひし感じながら、CDRと走り書きのメモを入れたビニール袋を「そっ」と置いたつもりが、「がさっ」と大きな音を立ててしまってずいぶんと焦ったっけ。

博識なRさんは、そこに収められたアダージョ・アッサイの演奏が誰の演奏であるか、知っていたにちがいない。
私はその楽曲をずいぶん丹念に聴き返したが、演奏者、楽団も指揮者も判じかねた。全楽章が収められたCDを頑張って探そうと思えば探せたのだろうが、私としてはこの曲に関しては知らぬままに留めておきたかったように思う。
いつかRさんと再会した時、「そういえば、あのラヴェルのピアノ協奏曲第2楽章って、誰の演奏だったんですかね?」さりげなくそう訊ける日が来ることを待っていたのかもしれない。

そう、その「アダージョ・アッサイ」は一糸乱れぬ、宇宙の果てまでたゆみなく広がっていくような、私にとってまさしく完璧なる演奏だったのだ。

完璧なる「アダージョ・アッサイ」

私はこのライナーノーツに手をつける直前、このアダージョ・アッサイが誰の演奏によるものなのか、とうとう見つけてしまった(このライナーノーツを記そうとしなければ、きっとそのままにしていただろうが)。
インターネットがあればたいていのものは嫌でも見つかってしまう現世界においても——その曲は簡単には見つからなかった。私のCDRには確かに存在しているのにもかかわらず(不思議なものだ)。
私はそれが誰の演奏か知らないことを望んでさえいた。演奏者も指揮者も楽団も一切不明の「完璧なる、無名のアダージョ・アッサイ」に留めておきたい気持ちが確かにあったように思う。若き日の完璧な思いでのように。

このプレイリスト『Tsuki-Kusa-Record』に収めたハヴィエル・ペリアネスとパリ管弦楽団による「アダージョ・アッサイ」は全く悪い演奏ではないけれど(近年の録音ではベストだと思う)、私が持っている「完璧なアダージョ・アッサイ」にはほど遠い。
だから、このプレイリストでこの曲を聴いてくださった方が「たしかに良い曲/演奏だけど、そんなに良いかな?」と感じたとしたら、実のところ、それは本意なのである(すみません)。

「じゃあ、その唯一無二のアダージョ・アッサイはどんな演奏で、誰の演奏なのか?(さっさと教えろ)」

ごもっともである。が、もう少しだけ引っ張らせて頂く。
私は長らくその演奏を、おそらくアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリのピアノとエットーレ・グラチス指揮による演奏と決めつけてた。
ミケランジェリは私にとっては「完璧なピアニスト」と呼べる数少ない1人で、これほど見事な演奏が出来るのは、もしミケランジェリでなければアルゲリッチくらいしか思い当たらない。しかし、アルゲリッチ/アバドの演奏はLPで所有している。これまたユニークで闊達な演奏ではあるけれど、私が所有している抑制と静謐に満ちた「アダージョ・アッサイ」とはほど遠い。

そしてミケランジェリ。こちらは今回意をけっして聴いてみたら、まさに「ぐう」の音も出ないような凄まじい演奏だった。
ちなみにミケランジェリのラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調」について検索していたら、私の敬愛する指揮者・セルジュ・チェリビダッケの指揮とミケランジェリのピアノによるライブ動画をたまたま見つけた。
これもまたとてつもなく素晴らしい演奏であった。個人的には音源化されたグラチス指揮より遥かに好きだ。完璧主義者(という物言いでは何を言ったことにもならないほど完璧な2人の音楽家)の、一世一代の邂逅が余すところなく顕れている。https://www.youtube.com/embed/9zIXSqyYyq0?rel=0

しかし、ミケランジェリとチェリビダッケのこれほど凄まじい演奏でさえも、若かりし日の思い出をたっぷり宿した「アダージョ・アッサイ」には届かない(個人の感想です)。

最後に、ようやっとここに公開させて頂く。
フランソワ・ジョエル・ティオリエのピアノ、ポーランド国立放送交響楽団、アントーニ・ヴィト指揮のラヴェル『ピアノ協奏曲 ト長調 第2番(アダージョ・アッサイ)』

難しいことは抜きにして、ひとまず耳を傾けてほしい。最初から最後まで聴いてもらえれば、私としては満足である。
このフランソワ・ジョエル・ティオリエというフランス系アメリカ人のピアニストは、僕に言わせれば——前回記したセルジオ・フィオレンティーノ同様、あまりに過小評価されているように思う。略歴などは記さないでおく(ネット上で得られる情報はあまりにも少ない)。とにかく、聴けばこの演奏の完璧さは了解して頂けると信じている。
さらに加えて言えば、私は「アダージョ・アッサイ」同様、フランソワ・ジョエル・ティオリエの奏でるドビュッシー「月の光」も(今のところ)もっとも好きな演奏だ。
そして「好き」という気持ちは、なんだか気恥ずかしいものである。
照れ隠しに、硬質で柔らかい「月の光」で立ち切るように、この長々と続いた自分語りをすぱっと終わらせてしまおう(すぱっ)。

(続きます!)

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