シューマン「幻想曲 ハ短調」

2012年より東京都・多摩地区で名曲喫茶を8年営んできました。
「名曲喫茶」というのはざっくりと申し上げるなら、クラシック音楽のみを再生する、喋り声の(ほとんど)しない喫茶店のことです(僕はそのように定義しています)。

これまたまったき私事で恐縮ですが、毎週レコードをひっくり返して大音量のクラシックを流し続け、日に何十杯もコーヒーを淹れるというお馴染みの喫茶為事を急に失ってしまったからでしょうか、ここ数ヶ月、なんだか自分が自分でなくなってしまったような、自分の半身を店に置いてきてしまったような、ずっと鳴り響いていた音楽が急に聴こえなくなってしまったような、とりとめのない、不安な心地が続いていました。

あの場所で鳴っていた音楽と、かぐわしいコーヒーの香りと、わざわざ足を運んでくださっていたお客様のことを考えていたら、なんだかいてもたってもいられなくなってしまって。
「部屋の中でも当店に居られるようなプレイリスト」を作ろう、作らねば、と急に思い立ちました。それは奇しくも、クラシック音楽の「聴き手」としての自分と今一度じっくり向き合ってみる作業になるのではないか、と。

https://music.apple.com/jp/playlist/tsuki-kusa-record-compiled-by-itsuki-h/pl.u-dJBYtZJlYj

『Tsuki-Kusa-Record』収録曲・全曲解説

この場をかりてプレイリスト全曲解説を試みたいと思います。
いっぺんに記すことも考えたのですが、せっかくの機会なので、全曲ぶんのライナーノーツ(のようなもの)を書いてみようと思った次第。
つたない解説になるかと思いますが、宜しければプレイリスト『Tsuki-Kusa-Record』をお部屋のスピーカーで、あるいはヘッドフォンやイヤフォンで再生しながらお付き合い頂けると名曲喫茶冥利に尽きます。

①『Fantasie in C Major, Op.17(幻想曲 ハ短調) 』Robert Schumann (by Severin von Eckardstein)

ロベルト・シューマン作曲「ソナタ風幻想曲」第1楽章。
1楽章だけで12分以上ありますが、まるで、ちっとも長さを感じさせない楽曲です。3楽章全て入れたいのは山々でしたが、プレイリスト全体のバランスを考慮して断念しました。第1楽章を聴いてご興味を持たれた方は、ぜひ通して聴いてみて頂きたいと心より願う。

この曲にはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの連作歌曲『遥かなる恋人に寄す』のフレーズが度々引用されます。所謂「オマージュ」というやつですね。シューマンという偉大なる作曲家は本当に、本当に、かのベートーヴェンに対して並々ならぬリスペクトと愛、という言葉では到底収まりきらないパッションを携えていました。それは間違いないところです。
『幻想曲ハ短調』は「ベートーヴェン記念像建立」のための寄付金集めを目的として作曲されたなどと言われていますが、私が思うにそういうことではなくて、たんに「ベートーヴェンへの熱情が必然的に溢れ出てしまった」というのが実情ではないかと想像しています。
件のベートーヴェン歌曲もご一聴ください。

https://open.spotify.com/embed/track/7MUKOup12ZJHqPQigu9sBA

そしてこの『幻想曲 ハ長調』曲のもうひとつの(熱情的)主題は、ご存知クララ・シューマン夫人(この時は未だクララ・ヴィーク嬢)へのまったき恋慕でしょう。
クララとの結婚を決意したものの、彼女の父親から猛反対され、シューマンにとって、この曲は恋慕ほとばしる、おまけに先の見えぬ冥い時期に書かれた唯一の楽曲でした(私がこの曲を初めて聴いた時、「恋」が浮かんだのもあながち間違いではなかったようです)。期待と恋慕と諦念と生への躍動。

迷いに迷って、ピアニストはセヴェリン・フォン・エッカードシュタイン氏。2003年『エリーザベト王妃国際コンクール』で優勝した経歴を持つ、ドイツはデュッセルドルフ生まれの実力派ピアニスト。実力派なだけではなく、当世風に言うところの(?)「イケメンピアニスト」でしょうか。

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近影。確かに、ちょっと若かりし日のグレン・グールド氏を彷彿とさせるようなナイス・ガイ。とは言え、私はルックスで演奏者を選ぶということは99.9999%ないので、今回も純粋に演奏のみで選別しました。
ちなみに個人的にこの『幻想曲ハ短調』演奏でもっとも好きなのは、イタリアのセルジオ・フィオレンティー丿氏の演奏です。
が、今回は敢えて2番めに好きなエッカードシュタイン氏の演奏を選びました。エッカード氏の若さゆえに生まれる抑揚と絶妙な「タメ」の冴える演奏が、今の心地に合っていたので。
春の不安感と瑞々しさと覚醒感がいち音いち音からほとばしるような、凄まじい楽曲/演奏に、弱った心をびしびし打たれないわけにはいかない。

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